物書き練習帳

ここにある内容は、所属する組織とは一切関係ありません。

自分の心を観察する

ゆーたすです。

今日は年明け初の合唱団の練習でした。また会えたことをうれしく思いました。今年もちょこちょことイベントがありますが、こっちから楽しくして、活かしていきたいですね。

さて、今回は自分の心とどう向き合ってみたかを書いてみたいと思います。ちょっとざっくりとしていますが、ご笑覧頂ければ。

自分を粗末にしてしまった

向こうからやってくる情報の嵐

よく言われることですが、現代社会は情報にあふれています。また、我々がインターネットやSNSを利用すると、こちらから取りに行こうとせずとも向こうから情報がやってきます。

これは、何かを調べようとか、何かいいアイデアはないかというときには便利な側面もあるでしょう。自分が思いもしなかった方向からの情報で、目の前が開けることもあります。

置いてけぼりになる自分

しかし、自分の心は、結構積極的に心の情報を集めにいかないと知ることができません。様々なサインを出してくることもあるでしょう。ところが、上記のような情報の嵐の中でそれが見過ごされてしまうことが多々あります。

また、自分の心で思っている「と思われる」ことをむやみに公開してしまっても、それは本心ではないでしょう。あるいは、社会的要請に従って変化させたものを発信していることもあるかもしれません。

Twitterは危険だ

上記の話は、Twitterを念頭に置いて書いています。

フォローすると、その人がつぶやいたことがどのような種類のものであれ自分の元へ流れ込んできます。実体のないはずのアカウントに自分の深く考えてもいないつぶやき――受動的に受け取った情報からゆがめられたつぶやき――から形成された人格が賦与され、それこそが本当の自分の人格だと錯覚してしまいかねません。

まるで、自分の人格がTwitter上に乗り移ってしまって、身体がもぬけのからになってしまうような感じです。

しんどいのに抜けられない

大学4年生の時、勉強にも身が入らず、彼女が欲しいと嘆き、日中ずっと布団の中でTwitterをするというトンデモ生活を送っていました。こうして文字にしてみるとなかなかの破壊力ですが、当時の自分は「今日もまたこんな感じか」くらいにしか思っていなかったと思います。

そのときには、すっかりTwitterが自分の中心になっていたのでしょう。自分の心なんてどこかに置きっ放し。なんとなく思ったことをただはき出すばかりで向き合おうとはしていなかった。

何も生産性がないとか、彼女が欲しいんだったら何かしら行動しろよ! という真っ当な突っ込みもわかるのですが、当時の自分には、何より自分の心と向き合うことをして欲しかったと、今思います。

自分の心と向き合うために

上で言ったように、

  • 情報を受動的にひたすら摂取してしまうこと
  • ただ思うことを垂れ流して心が乗り移ってしまう

というようなことがありました。そこで、いわゆるツイ禁を行いました。ツイ禁には2つあり、一つは見ないようにすること、もう一つはつぶやかないようにすることがあります。

結果から言うと、見ないようにすることよりもつぶやかないようにすることの方が効果が大きかったと感じています。まずはそちらから書きます。

ツイ禁する――つぶやかない

ツイキンジャー

ついついつぶやきたくなってしまうのは、もはやTwitter上こそが自分の世界となり、そこに思いを乗せることで自分を消費することに楽しさを覚えているからです。それをとどめよというのは、かなりの自制心を要しました。なにしろ一番ひどいときで300tpd(tweets per day)を超えていたくらいですから。

癖のようにTwitterアプリを開き、つぶやき画面を開いてしまうのです。そこまではもはや自動化されているのです。それだけ、心はがばがばになっていました。

ツイキンジャーというサービスがあります。これは、ツイ禁を宣言してからある期間内につぶやいてしまうとその旨が投稿されてしまうというサービスです。

別にこんなしょうもないもの、セットしなくたって、と思うでしょうが、これがなければ自動ツイート器に成り下がってしまうのです。これがあることで、少しは「せっかくここまで『失敗しました』と出ていないのだから、我慢だ我慢……」と制することができるのです。

当初は1日でもかなり厳しいものでしたが、先日1,2ヶ月ほどツイ禁することができました。「たばこなんてろくでもない、さっさとやめればいいのに」と無遠慮に言うことをやめようと思いました。

心と向き合うように心がけた

ただつぶやかないだけでは意味がありません。私は、ついつぶやこうとした時、「今、何をつぶやこうとした?」「それは本当にそう思っているのか?」と自分に問いかけるようにしました。

これを繰り返すうちに、徐々に自分の心が妙なことになっている/なりそうだという時に気づけるようになってきました。このブログも、心と丁寧に対話しつつ「本当にこう思っているのか?」と考えながら書いています。

ツイ禁する――TLを見ない

無理だ――では、見方を考えよう

こちらは、正直言って全く達成できたことがなく、せいぜい1日くらいがいいところでした。

ただ一つ言えるのは、その日の日常が充実していると、TL(タイムライン)を見ることを意識するまもなく一日が終わるということです。逆に言えば、見てしまうということはそれだけ隙間があるということです。

隙間のあること自体は全く問題ないと思います。そして、見ることをやめることは今のところかなり難しいと感じているので、流れてきた言葉をどう受け止めるかを気にするようにしています。

たとえば、よく「褒め言葉は自分に対してではないと考え、責める言葉や愚痴は自分に対してではないかと考えてしまう」志向があることが言われます。私にはその傾向があると思います。これは、結構心に傷を負わせてしまいがちです。何もせずとも日常で責められることや自分で自分を責めてしまうこともあるというのに、第三者の言葉、それも受け取りたくて受け取っている言葉にまで傷つけられてしまっては、とてもやっていられません。

ですので、たとえば貶すような言葉には「別に自分に向けて言われた言葉じゃないし。まあ他山の石と思おう」という姿勢を持ち、また褒め言葉には「なるほど、確かにそれはいいことだ。自分もまねできるといいな」と自分の今後につなげるように感じるようにしています。今後も向き合い方を考えたいところです。

あるいは、日常を充実させたいです。今は合唱団に所属していますが、それだけでなく、やはり自分と向き合う時間を作らねばなりません。自分一人で何かに取り組む時間も自分との対話です。以外と自分はめんどくさいやつなんだ、メンテしてあげなくちゃだめなんだ、と思えてきたので、それを行動に移したいと思います。

このブログも、その対話の一つです。丁寧にやっていきたいと思います。忙しくして、文字の通り心を亡くさぬように。

 

ゆーたす