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物書き練習帳

ここにある内容は、所属する組織とは一切関係ありません。

『10代の君たちへ 自分を育てるのは自分』(東井義男)

ゆーたすです。少しサボってしまいました。

3日間、結構いろいろやってました。13日は同期がキャリアについて私を指名して相談してくれ、14日は大学の合唱団の後輩たちの演奏会を聞きに行き、15日は合唱の練習で仕切っておりました。もりだくさんの3日間でした。

今回は、この本を読んで感じた、人の大きさについて書きます。 

自分を育てるのは自分

自分を育てるのは自分

 

概略

この本は、東井義雄(とうい・よしお)さんが話された内容をまとめたものです。内容は2部に分けられ、「私を私に育てる責任者は私」と「バカにはなるまい」とから構成されています。

東井義雄さんについては、検索して頂くと多くの情報がヒットします。教育者として活躍されました(1991年没)。きわめて平易に、今なお古ぼけることない人として生きるにあたって心がけねばならないことを、ご自身のエピソードを交えながら書いていらっしゃいます。

この書評では、この本の中にある「元服」「大きい人と小さい人」という節から感じたことを書きます。

人に「成る」ということ

元服」とはどういう意味でしょうか。たとえばWikipediaには、

奈良時代以降の日本に於いて、男子の成人を示すものとして行われる儀式のことであり、通過儀礼の一つである。

とあります。「男子の」ということを除けば、「厳格な成人式」のようなものと思ってもらっていいのではないでしょうか。

さて、我々は成人式に参加するにあたって、どのようなことが義務として課せられていますか? 20歳になることですね。その年に20歳になる人が成人式に参加することができるのです。そのほかに資格要件はありません。20歳になれば、日本では様々な権利義務が自分付けとなります。参政権もそうですし、様々な法律行為も自らの責任において執り行うことになります。

以上のことはすべて形式上のことです。制度上そうなっているから、20歳になれば成人として取り扱われるのです。本当にちゃんと「人と成った」かどうかは、こんなことじゃわかりません。

「大人」とは

愚直に「大人」を読み下せば「大きな人」となります。この「大きな」が、物理的に大きいということも指しましょうが、「大きな人間」とか「器が大きい」ということがあるでしょう。

自然に任せておいても「大きな人間」にはなれないということを強く感じさせられるエピソードが本に掲載されています。

いつも俺より下のあいつが、なんで

ある中学生がいました。彼はとても優秀で、いつも校内の実力テストでトップ。抜かれたことなんてありませんでした。そんな彼と、友人のAは、担任のすすめで有名な、全国から優等生が集う高校を受験することにしました。

彼は、担任からの期待、両親からの期待に応えんと、猛烈に勉強しました。だのに、結果は不合格。ところが、友人のAは受かっていたのです。

みじめでならなかった。期待を受けて必死に努力した。それが急にどん底。いつも自分より下のAは受かったのに俺は落ちたという事実が、感情を揺さぶった。

もはや誰の顔も見たくない。そんな風にふさぎ込んでいると、母が、
 『Aさんが来てくださったよ』と。

とてもじゃないが合わせる顔がない彼。Aが憎くてしょうがない彼。会う気はないと啖呵を切る。母は、
『せっかく来てくださっているのに、母さんにはそんなこといえないよ。あんたたちの友達の関係って、そんなに薄情なものなの。ちょっと間違えば、敵・見方になってしまうような薄っぺらいものなの。母さんにはAさんを追い返すなんてできないよ。イヤならイヤでそっぽを向いていなさいよ。そしたらお帰りになるだろうから』
と言って部屋を出ていった。

しばらくして、足音が聞こえてきた。Aだ。気が狂いそうになる。胸を張って見据えてやろうと、起き上がって迎え撃つ準備をした。そのとき、戸が開き、Aが見えた。涙を一杯ためたAは、こう言った。
『B君(=彼)、僕だけが通ってしまってごめんね……』
やっとそれだけ言って、A君は去って行った。

思いあがっていた恥ずかしさ

彼は、とてつもない羞恥を覚えました。そしてこう自省したのです。

思いあがっていた僕、いつもA君になんか負けないぞと、A君を見下ろしていた僕、この僕が合格して、A君が落ちたとして、僕はA君を訪ねて、僕だけ通ってしまってごめんねと、泣いて慰めに行ったろうか。ざまあみろと、余計思いあがったに違いない自分に気が付くと、こんな僕なんか落ちるのが当然だったときが付いた。彼とは人間のできが違うと気が付いた。通っていたら、どんな恐ろしい一人よがりの思いあがった人間になってしまったところだろう。

「人間のでき」

以上が「元服」という節で語られた、ある人の作文です。どうでしょうか。私はこれを読んですこし涙が出てきました。

もし自分が彼の立場だったらどうだったろうか? とてもじゃないですが、「僕だけ通ってごめんね」とはなかなか言えません。しかも、電話とか手紙とかではなく、わざわざ赴いてですよ。きっと彼は僕のことが憎いだろう、悔しいだろうとわかっていても、一緒に頑張ってきた彼だもの、どうして放っておけるだろうか、と決心して向かったのだろうと思います。

どうしてA君は、こうした仲間の痛みをわかってあげられて、しかもそこから行動を起こして仲間に向き合うことができた、あるいはできるようになったのでしょうか。

経験からくる心の栄養

恋愛での大失敗

私は、幸いにしてここまで比較的平穏無事にやってくることができました。いわゆる受験はほぼ完全制覇です。

幸い、「おまえは失敗してこずにここまでこれてよかったなぁ!」という恨み節には遭いませんでしたが、逆に自分が言いそうになったことがあります。恋愛沙汰です。

中2の時。初めての彼女ができて、舞い上がっていました。徐々に雑になるメール、もとからできないエスコート、もはや愛想は尽かされていました。そして彼女は、私の目の前で別の男といちゃつくのを見せつけてくるようになりました。

その後、彼女に、ぐちゃぐちゃと泣き言をぶつけたような記憶があります。なんと言ったかは覚えていません。今思い返せば、なんてゴミクズな男だったのだろうと思います。映画館に行くときに道がちょっとわからなくなったとき、彼女に八つ当たりみたいなこともしたと思います。トンデモビックリ人間ですね。ホント中学生でぶちのめされていてよかったと思います。

相手の心中を想像するには

こういう恋愛の失敗を、程度は上のが一番ひどいですが、いくつかしました。

そうしているうちに、こう思うようになりました。簡単に「心中察するよ」なんて言うけど、んなことはできねえな、と。

もちろん、上で挙げたような言動はおよそ褒められたものではないです。しかし、その時その瞬間私の中で噴き上げた感情は、否定しようがありません。それそのもの、その感じ方は唯一無二のものです。他人に「わかるよ」なんて言われても、ふざけてくれるなという話です。

でも、相手が似たようなシチュエーションになったときに、私だったらこう感じるだろうと思える、その材料にはなったと思います。これが、心の栄養の一側面だと思います。

A君には、そういうものがあったのではないかと思います。直接経験して感じたことか、本や他人の語りから感じたことか、あるいはそれらを自分が経験したらと想像して感じたことか、経路はともあれ、とても多くの感情に触れてきたのではないでしょうか。だからこそ、B君(=彼)はきっと僕になんか会いたくないだろうけれどと思いつつ、B君の胸の痛みを強く感じ、会って一言どうにか伝えるに至ったのでしょう。

「きっとB君は悔しいだろう、慰めてやろう」だけではない。「僕になんか会いたくないだろう」というところまで感じていると思います。もし自分が同じ状況に至ったら自分はどう感じるだろうか、これがわかってこその行動であったから、どうにか一言絞り出すだけで、ぐだぐだと「B君の悔しさはわかるよ」とか言わなかったのです。

「大人」になる、ということ

ようやくタイトルに戻ってこれました。「大人」になるということは、相手の境遇に自分がいたらどう感じるかを考えることができるようになり、かつ自分と相手とを切り分けることができるようになることではないかと思います。

相手の境遇での感じ方は先に述べたとおりです。そのためには、とても多くの経験を、正面からぶつかって積んでいかなくてはいけないと思います。もちろん本を読んで追体験というのもありますが、「噴き上げる感情」自体は直接経験しないと鬼気迫ってこないでしょう。それがあってこその追体験と思います。

一方、新たに挙げた「切り分け」。「お前の思うことはわかるよ」とかいう共感みたいなものははっきり言って余計なお世話です。余計なお世話どころか間違っていることだってありますし、複雑な自分の感情が相手にとても容易に分かり解きほぐされているなんてのはとてもプライドが許さないでしょう。もしA君が「B君も通ると思っていたよ」とか「きっと悔しいよね」とか言っていたら、どうなっていたと思いますか。

あくまで、自分が相手の境遇に立ったときどう感じるかを考える。その上で、そんな「自分が」「相手に」何をしたらいいかを別に考える。これが大切だと思います。「相手が」「自分に」何をして欲しいかを考えてはいけないのです。単に多くの「いい」経験を積んだだけではだめで、やはり正面から跳ね返されたり傷つけられたりしてどうにもならない感情と向き合ってはじめてできるようになることだと思います。

この2つが、大きい人間ができることのひとつだと思います。大きい人間になるというのはとても大変なことでしょう。自分からなろうと思ってなれるものではないのかもしれません。常に学び続け、自分の心に向き合い続けていかねばならないと強く感じます。

身の回りにはこんな大きな人間も、小さな人間もいます。そこで自分がとるべきは、ただ「大きな人間ってすごいな」「小さな人間なんてしょうもない」と他人に興味を向け続けることではなく、自分のために何をするかを考え行動することです。

自分がこんなことできているかは分かりませんが、こうしたアウトプットや自分から情報を取得しにいく姿勢を大切にし、心を磨いていきたいと思います。

 

ゆーたす